キリスト者とは


「キリスト者」って何?

 私たちキリスト者は何も特別な存在ではありません。私たちも日々学校に通い、日常生活を送る普通の男子学生です。 一方で、私たちは神を信じる者です。クリスチャン・ホームで信仰を育んできた学生もいれば、ミッション系の学校で聖書と出会った学生もいます。アメリカ留学中に地元の学生に誘われ教会に通い始めた学生もいれば、この寮に入ってから他の寮生の通う教会に通い始め信仰の旅を始めた学生もいます。プロテスタントの諸宗派からカトリックまで幅広い信仰のあり方を受け入れるこの寮を一言で表せば「多様性」です。この寮で生活することは、寮生一人一人が神との関係を生き、同時に寮生同士の交わりを通して多様な価値観の中を生きることでもあります。

 神は目にみえるものではありませんが、私たちを創り、愛し、元気づけ、悩み多き者を慰めてくれることを日常の生活のなかで私たちは感じます。聖書は、約2000年前に神自身が生身の人イエス・キリストとしてこの世界に現れ、隣人を愛し、神を愛することから溢れるように湧いてくる希望を、身をもって示した出来事を弟子たちが克明に記した書物です。

 聖書にはこんな一節があります。 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」(マタイによる福音書 7:13-14)。 どこかで聞いたことがあるかもしれません。

 「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。成ったもので言葉によらずに成ったものは何一つなかった。言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(ヨハネによる福音書1:1-4)。 言葉の力強さには本当に驚かされます。聖書から学ぶにも言葉を介してですが、それと同時に、言葉が人を傷つけることもあれば、言葉が人を生かすこともあることを、私たちは寮での生活で身をもって経験してきました。

 最後に、 「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛が私たちの内で全うされるのです」(ヨハネの手紙一 4:12)。

 神を信じること、あるいはキリスト者であることは、何かを盲信することではないと私たちは考えます。神を信じるとは、むしろ日頃当たり前だと思っていることの不思議さや、有り難さ、不合理さにあえて目を向け、絶えず意味付けを試みようとすることです。成功や失敗、人との出会いや別れ、楽しいこと苦しいこと、すべての経験から神は私たちに教えてくれるのです。あたかも父が子にものを教えるように。

 あなたも、私たち寮生と集団生活を送ることを通して、朝の礼拝や聖書研究等を通して、人生の深みを一緒に探求していきませんか☆
(K. K. 05/31/2009)