原田明夫(1963年卒/東大YMCA寮元理事長/元検事総長)
私は、1958(昭和33)年3月に兵庫県立龍野高校を卒業して東大教養学部文科Ⅰ類に入学し、下宿生活をしながら駒場に通ったのですが、翌1959年暮れに当時の追分寮に入舎し、1963年春に法学部を卒業するまで約3年半の間YMCA寮生活を経験しました。世情は60年安保の時代で、いわゆる学生運動も盛んで、舎生の中にも熱心に参加する人もおり、折に触れて政治の在り方について議論することもありましたが、私は、入舎する直前に世田谷区の日本キリスト教団梅ヶ丘教会で受洗し、教会学校の教師を務めたり、寮の先輩が数年前に設立した宗教音楽研究会合唱団に属してコーラスを楽しんだりしつつ、個人的にはキリスト教の神学関係の著作をかなり熱心に読んでいました。ただ、青年会の初代理事長が大正デモクラシーの旗手と言われた吉野作造先生であり、先輩にセツルメント法律相談を始めたキリスト教的社会主義者とも言われた片山哲先生がおられたこと等から、寮内にはなんとなく社会的正義の観点を常に意識するような雰囲気があったような気がします。
寮生活の在り方は、今なお当時の舎生仲間との日常の語り合いや、折に触れての近郊散策・小旅行が懐かしく思い出され、前後十年くらいの幅のある先輩・同期・後輩の皆さんとの交流・懇談の機会を現在も毎年定期的に開いて、旧交を温め合うことが楽しみになっています。
私は、卒業後、司法修習生を経て1965(昭和40)年4月に検事に任官して、2004(平成16)年夏に検事総長を最後に退官するまで約40年に及ぶ公務員生活を送ったわけですが、その間法務省、検察庁に勤務して政府の法律家としての仕事をするほか、外務省に出向して一等書記官として在米日本国大使館に勤務する機会も与えられました。また、退官後も、政府関係機関の仕事を仰せつかったほか、公益法人の代表理事や大学の理事長のお役目を務めさせていただき、現在もいくつかの会社の社外役員を務めています。最近になってつくづく思うのは、健康にも恵まれて、間もなく後期高齢者の仲間になるのに、なお毎日のように何がしかの用で行く処があるのというのは、誠に有難いことであり、それは若い時にこの寮生活で得た経験と思い出が人生の通奏低音のように私を支えてくれているからではないかということです。
そのように考える理由を私なりにあげてみますと、第一に、若い青年時代に垂直の関係で聖書とイエス・キリストの福音に触れたことであり、第二に、同年配の多様性に富む仲間と心置きなく対話をすることが出来たことです。
まず、人生の発端で物事を突き詰めて考えることができる時期に、聖書の御言葉を繰り返し読み、イエスの事績と言葉に思いを致すことは、常に自分を客観的に見つめることを可能にし、知らず知らずのうちに自己を超えた存在にある種の怖れと信頼を感じさせてくれるのではないでしょうか。そのような自己認識は、他の人々との関係で自分を常に絶対化しないで、何事も相対的に考える心の余裕を与えてくれたような気がします。
もう一つは、多様な仲間との対話の大切さです。この寮の舎生は全体として数は多くないのに、その多様性は極めて大きな特徴です。専門の学ぶ分野が文科・理科を問わず様々ですから、学部の同じ仲間だけでは通常知ることが出来ない多様性に富むものの考え方に接することが出来ます。各人の居室はすべて個室であり、プライバシーを尊重しつつ、様々な機会に対話が出来る環境にあります。普段の行事や聖書研究会、早朝祈祷の場のみならず、興が乗れば夜を徹して語り合うことも可能でした。最近は特にインターネットやスマホの時代で、ともすれば顔を合わせて語り合う時間が取りにくいことが指摘される時代に、顔を合わせて忌憚なく語り合うことの意味は大きいのです。更に私のころにはなかったこととして、留学生が何人かいることはこれからの時代にとても大切な多様性です。そして、このウェブサイトでも紹介されていますが、この春から、女子学生にも門戸を開くことになったのは、特筆すべきことだと思います。
このグローバル化の時代に、同じ垂直の関係での価値観を共有しつつ、専門分野、国籍、性差を超えた多様な仲間と同じ食事をしつつ寮生活を送ることは、まさに時代の要請にあった切磋琢磨の経験を与えてくれると期待しています。
私は、退官後、米国のスタンフォード大学のアジア太平洋研究センター(APRC)の招きで特別講師として1学年滞在したことがありますが、学生寮の殆どが同じような多様性を大事にしていたことを羨ましく思っていました。
舎生の皆さんが、必ずや、卒業後の永い人生で忘れられない基盤としての経験を積んでいただけるものと願っています。
上田光正(1962年卒/日本基督教団曳舟教会牧師)
私は昭和35年、60年安保の年に入舎した。安保はまさに国論を二分した大事件であった。寮内でも意見が二つに分かれた。YM寮は初代理事長が吉野作造先生で、先輩にはキリスト者で社会党党首として尊敬されていた片山哲先生も居られたので、寮内には日本の将来に対する意識は何とはなしに高かった。一方、寮生は必ずしもそういうことを意識して入って来たわけではない。当時から(たぶん今も)寮費は格段に安く、部屋は皆個室で広く、プライバシーが尊重される中、夜遅くまで自由に話せた。ただし、入寮に際して5~6人の先輩による面接があり、信仰をまじめに考え、教会生活をきちんとしているか否かが問われたので、一般学生は入れなかった。
私は入寮と共に、先輩に連れられて巣鴨ときわ教会に通うようになり、その年の12月25日に洗礼を受けた。次の年の正月、私は家族伝道をまじめに考え、去りがたいYM寮を出ることになる。結局寮には僅か8か月しかいなかったが、得たものは多かった。特に、夜中まで自由に語り合いつつ、お互いに信仰によって人格を形成し合える雰囲気は得難いものだった。また、各階ごとの寮拝は自主的に守られていて、寮生の半分ぐらいは出席していたように思う。今の私の何分の一かは、YMで形づくられたと考えている。
私が入舎してすぐ、世間では安保騒ぎが始まった。安保は1951年のサンフランシスコ条約と共に締結され、当時の吉田首相は「防衛はアメリカに任せ、日本は経済復興に専念する」という考えで調印した。それが1960年に改定の年を迎え、新安保が国会で強行採決された(5月19日、岸首相)。それが報じられると、全国で猛烈な反対運動が興った。6月15日には580万人の全国的なストの中、国会での大衝突事件が起こり、東大生の樺(かんば)美智子さん(22歳)が死亡した。新聞に大きく報じられたものである。
寮でも安保の是非が論じられた。進んでデモに参加する者もおれば、そこまで踏み込めない者もいた。しかし、世間のようにお互いに非難し合うことはせず、論じつつも、お互いの人格を尊重した。私は当時、まだ社会や国家の何たるかを知らず、全くのノンポリであり、自分の信念がない以上デモには参加できなかった。寮生の中で、やはり警官に頭を棍棒で殴られて人事不肖に陥った先輩(医学部3年生)が居て、東大病院に担ぎ込まれた。私は数人の先輩たちと共に、徹夜で看病した。苦しそうなうわごとが夜中過ぎまで続いたが、明け方に、ようやく峠を越した。この安保騒動を通し、私は生涯、「教会と社会」、「福音と歴史」の問題を自分の問題として、しかも、信仰を中心に考える基本を身に着けさせられた。得難い経験だったと思う。
当時の若い人たちは、ベトナム戦争におけるアメリカの敗北を見、南ア連邦のアパルトヘイトに対する勝利を見て、自分たちの手で「歴史」を変え得ると信じ、「革命」を信じていた。そういう希有の時代であった。しかし、岸内閣退陣後、一連の大学紛争は日本史上でも空前の反政府、反米運動となると同時に、火炎瓶、鉄パイプなどの暴力が振るわれる側面をも持っていた。この間、日本の(少なくとも、日本基督教団の)諸教会は、必ずしも道を求めて来た若者たちを正しく導いたとは思えない。むしろ、完全なマルクス主義の図式とお決まりの社会分析に依存した言説が、あたかも教会の論理として通用してしまった。そして、1967年頃から始まった世界規模における新左翼的アナーキズムに触発された学生たちに対し、真の終末論的視点を示すことがまったくできなかった。ここに私たち日本の教会の弱さがあった。このことについては、教団はやはり、深く反省すべき点があるのではないか。人生を棒に振った若者たちがとても大勢いた。
本来、歴史は神の言葉を聴くことによらなければ変わらない。その時から私がいつも考えて来たのは、神の言葉こそがこの世界を真に変え得る、ということである。なぜなら、神の言葉はこの世界の「内部から」ではなく、「外部から」(つまり、「上から」)聞こえてくる言葉だから。この世界の「外部から」聞こえてくる言葉によらなければ、罪を犯した人間の歴史は、自己内対話によっては、変わらない。逆に言えば、われわれがもしほんの一言でも神の言葉を聴くことが出来たなら、その時から新しい命がこの世界と教会と一人ひとりの内側に注がれるに相違ない。「人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(申命記8・3)とあるからである。
その後私は医学部に入学したが、献身して東京神学大学3年に編入し、66年に同大学を卒業した。その後ドイツへ5年半留学し、帰国してから高知の安芸教会で6年、金沢の若草教会で5年、渋谷の美竹教会で30年牧会し、今春、現在の曳舟教会に赴任した。
山口栄一(1977年卒D 京都大学大学院教授)
遥かなる『本郷』
東京帝国大学学生基督教青年会というのは、本郷通りの電車道に面した三階半の洋館であった。半というのは地階が半分地上にせり上がっていて、当初は室内運動場だったらしいが、私が入った頃はそこは貸事務所。その上が一階ということになっていて社交室と呼ばれる絨毯敷きのホール、その上の二階が礼拝堂、その上の三階は客間と称して OBが上京してきて泊まる部屋が四つ並んでいたが、私は卒業後この客間に非合法に住みついて、学生時代から通算すると蜿蜓一七年間をYMに蟠踞した。前に書いた天文学者畑中武夫が住んだのもこの客間であり、亡友森有正との忘れがたい隣り同士の交友六年間を、一九五〇年に彼がフランスへ去るまで送ったのもこの客間においてであった。
(木下順二『本郷』185ページ)
木下順二の『本郷』は、彼が1936年から17年間住んだ東大YMCAの思い出を克明に記している。私が東大Yを出た直後の1982年に『群像』に連載されたこのエッセイは、東大Yとそれを取り巻く本郷の街並みを、匂いまで漂ってきそうな描写で書いてあって、『夕鶴』をはじめとする彼の作品は、すべて東大Yでの生活がその魂の起点にあるということがよく分かる。
そこで、拙稿ではこのエッセイに導かれながら、私が1975年から79年まで4年間住み暮らした思い出をそこに重ねてみたい。
秋に、熊本の五高にまで東大YMCAの勧誘隊がやってきた。当時東大Yに入舎する舎生の数が少ないので、全国あちこちの高校へ、確か“十字軍”と称したと思う、入舎勧誘隊を派遣していたのだそうだ。(中略)そういうことで、大学にはいると私は東大YMCAの舎生になった。(183ページ)
当時から、舎生集めには苦労していた様子が分かる。「十字軍」が全国の旧制高校に行き、宣伝をしていたということだ。彼らは「熊本バンド」の流れを汲む五高YMCAに行き、戦争のあり方まで議論していた。その議論に好意を持ったのだろう。木下は東京帝国大学に入学するとすぐに東大Yに入る。そして彼は戦時下そして占領下の東京を、東大Yで体験していたのだった。
マンションに変わる前の東大YMCAの建物というのは――つまり一九一六年から取毀しの一九七三年まで五十八年間、関東大震災で大半崩壊して改築、その後空襲を凌いで屹立し続けた会館というのは――(中略)そういう会館であった。(184ページ)
その「マンションに変わ」った後の東大YMCAに、私は1期生として入舎した。新舎の竣工は、1975年3月。3月下旬から、旧舎のDNAを伝えるために篠原正雄兄(現在 駒沢大学教授)や清水正之兄(現在 聖学院大学教授)らがぞくぞくと入舎。そして4月以後、新舎1期生が段階的に入った。私はといえば、1975年10月に行なわれた入舎試験に合格して11月1日に入舎したので、1.5期生というべきだろう[1]。談話室に集まった受験生は10人以上いた。その中から、文Ⅱの灰本周三兄(現在 富士重工専務)と理学部物理の私だけが選ばれた。競争率5倍以上の狭き門だった。なにしろ新築ピカピカの鉄筋マンションの1室だ。1人で入れる広い風呂も、洗濯機もある。しかも毎朝毎晩、暖かい食事がシェフの小泉さんによって用意される。風呂なし・共同便所・6畳1間の荻窪の木造アパートに住んでいた私には、まるで夢のような住環境だった。そもそも当時の下宿で、風呂のある所など皆無の時代。じっさい旧舎生は、「新舎に風呂など要らぬ。銭湯で十分だ」と主張したらしい。
私は、破格の生活を心から楽しんだ。しかも私たちが新舎創業者として新しい東大Yの歴史を創っていくのだ。そこで私はきちんと歴史のクロックを刻み始めたいと思った。
まずは段ボールに入ったまま寮の一室に山積みになっているさまざまな資料をすべて4階の談話室に運んで分類を始めた。半年かけて分類を終えた私は、専務理事の馬場進さんに「30万円もらえないか」とお願いした。分類された資料をすべて製本し、書棚を購入して4階の談話室を半分、図書室にするという案である。馬場さんは快諾してくれた。こうして夕祷ノートや早祷ノート、そして日直ノートや食堂ノートを製本した。
次に、会報の改革を提案した。それまで会報は見開き4ページの小さめの新聞の形をしていたのである。これを冊子形式にして、OBの寄稿や舎生の寄稿をたくさん載せたい、と馬場さんにお願いした。馬場さんは「會報という揮毫はとても大事なので、それは残してほしい」とおっしゃった。この揮毫の下に何か歴史に残るような絵を入れたいと思った私は、その表紙の絵を、いまや日本を代表する建築家になった團紀彦兄にお願いした。
そのYMCAと芝居というものとが、私の中ではいろいろな結びつきを持っている。まず、はいった年のクリスマスに、YMの学生たちがいつもクリスマスにやる芝居の裏方を手伝わされて、何しろそんな経験は生まれて初めてだったからいろいろ相当にびっくりした。(中略)
だしものはロマン・ロランの“フランス革命連作戯曲”の一つである『愛と死との戯れ』という大作であった。女優さんはYWCAに応援を求めたらしい。金田一昌三、私より一年上の国文科で『女人哀詩』に私を引っ張って行ってくれた人。(中略)その彼が劇の指南番に何と山本安英さんを引っぱって来て、彼女を相手役に見立てて彼女の細っこい脛に大きなからだで飛びかかって行くのではらはらした――という記憶がどうも残っている。(205-208ページ)
なんと、木下順二と山本安英との歴史的コンビの誕生は、東大Yのクリスマス祝会の芝居にその契機があるのだった。しかしそんなこととは露ほども知らない私たちは、知らぬが仏、肩の力を抜いてクリスマスの芝居に取り組むことができた。
今でも記憶に残っているのが『白い龍と黒い龍』。文学部東洋史学科の小林辰美兄(現在 佐渡で「ポッポのパン」経営)が童話にもとづいて脚本を執筆。私が悪霊の黒い龍になり、團兄が正義の白い龍になって戦うという物語だ。黒い龍の独白のあと、物語の最初に村の老夫婦が登場する。このお爺さん役が、合田隆史兄(現在 尚絅学院大学学長)。そしてお婆さん役が、尾城京子嬢(現在 私の妻)であった。サンタナのアブラクサスのおどろおどろしいメロディとともに黒い龍が登場すると、観客の幼子がいっせいに泣いた。
…共同生活の中で、若いなりにほかでは持てない、また思考のひろがりを、そして快適な毎日を、東大YMCAは私たちに与えてくれた。三〇年代の後半において、そこは当時なりの“自由主義的”雰囲気を、快い調和の上に未だ維持している小世界だった。(211ページ)
「黒い龍」が棲みついたおぞましい戦時下の日本で、木下はどうやって精神の自由を保ち続けたのだろう。その疑問に対する回答がここにあるように思う。
私が住んでいた1970年代においても、東大Y は「ほかでは持てない思考のひろがりを与えてくれ」る場だったとつくづく思う。いっしょに暮したスイス人のJean-Dominique Decotignie(現在 ローザンヌ連邦工科大学教授)が、2013年1月23日に久しぶりに会いに来てくれた時、まっさきに向かったのも東大Yだった。
すっかり白髪になってしまったデコティニは、私をすぐに見つけ出した。一瞬にして私たちは35年前に戻った。彼は開口一番こう言った。
「この寄宿舎から、ぼくはよく富士山を見ていたんだ。また見てみたいな」
「ほんとかい。ぼくは興味なかったから覚えてすらいないな」
「ほんとに見えるはずなんだよ。行ってみよう」
彼はそう言って、私を東大Yの4階の物干し場に引っ張っていった。
すると、たしかに見えた。彼は
「35年前のあのころはビルがそんなに建ってなかったから、富士山のすそ野まできれいに見えたけれど、今では頭だけしか見えない。けれども、今でも富士山の色は変わらないよ。ああ、やっと日本に帰ってきたんだな」とため息をついた。
私たちはすっかり昔の「同じ釜の飯を食った」同志に戻っていた。彼は
「日本は美しい」とすっかりはしゃいでいた。
当時、私たちは、将来の不安やら世界のゆくえやら、そして科学の未来のことを毎日語りあったものだった。それから35年経っても、彼の良き心はちっとも変わっていない。あのころ、まるで母親のように私たちを慈しみ励まし、そして2012年9月18日に天に召された加藤せつさんのことを2人で静かに祈りながら、デコティニと私は、いつまでもいつまでも富士山に向かって沈みゆく夕日を眺めていた。
※卒業年は退寮された年に統一しています。
[1] 当時の日直ノートによれば、1975年度には何度も分けて入舎試験が行なわれたようだ。合田隆史兄は1975年9月に入舎、小林辰美兄は1976年3月に入舎したと推測される。なお灰本周三兄が入舎したのは、選抜されて3か月後の1976年1月だった。